パラ五輪、義足陸上初のメダリスト 東京2020のその先のために

北京パラリンピックで銀メダルを獲得し、日本パラ陸上の義足アスリートとして初のメダリストとなった山本 篤。2017年にはプロに転向し、そのポジティブな発言やかっこよさにこだわる生き方にも注目が集まる。現在、38歳。記録のみならず、義足アスリートとして新しいスタイルを切り拓き続けるその源とは?

文・油井なおみ

 

山本 篤(陸上競技選手、パラリンピック走り幅跳び 銀メダリスト)

持ち前のポジティブさと
陸上への熱が日本記録に繋がる

「もっと走れる気がする――!」

初めて競技用の義足で走ったとき、大きな衝撃と喜びを感じた。借り物のため、長さもサイズもフィットしていない。にも関わらず、その軽さとバネのような跳躍感に驚き、「速く走りたくてウズウズする」感覚に魅入られた。

高校3年生になる直前の春休み、バイク事故で左足を大腿部から失った。それでも持ち前の明るさは変わらない。楽しめるものを見つけて過ごし、その年の冬には例年の通り、日常用の義足のままスノーボードに出かけたという。

そんなアクティブな山本でも、競技用義足に出会ったのは、高校卒業後。

2001年、義肢装具士を目指して入学した専門学校時代のことだった。

「僕の義足を作ってくれていた義肢装具士が陸上大会に誘ってくれて。競技用義足を貸してくれるというので、軽い気持ちで走ってみたんです。最初は転んでしまいましたが、ぴょんぴょん跳ねる躍動感に心を奪われました」

子どもの頃から体を動かすのが好きだった。これでまた、冬はスノーボード、他のシーズンは陸上と「一年中、楽しいことができる」と思ったという。

そんな軽い気持ちで陸上を始めた山本だが、翌年(2002年)には関東身体障碍者陸上競技選手権大会で優勝。専門学校3年生で出場した全国障碍者スポーツ大会では100mで日本新を出し優勝。時はアテネパラリンピック目前の2003年11月。「世界」の2文字が見えてきた。ところが、翌年3月のアテネパラリンピック最終選考会では標準記録を超えられず、まさかの落選。

「悔しかったですね。実は就職も決まっていたんですが、スポーツを本気でやるなら若い今しかないと思い、陸上をやる環境が整った大学に進学することに決めたんです」

この選択で覚悟は固まった。事故に遭った自分を専門学校だけでなく、大学にも行かせてくれた両親の為にも、陸上で結果を出し、必ず恩返しをする。

「切り替えは昔から早いですね。どちらかというと、いろんな悪いことをしてきた方だと思うんですが(笑)、その度にうちの親は叱ったり反省させるより『次、どうするの?』と考えさせてきたんです。超ポジティブなのは、そのお陰ですね」

入学した大阪体育大学の陸上部では、健常者の男子部員とともに練習した。

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