2019年5月号
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クリエイティブのまち青山

故・堺屋太一氏(作家、元経企庁長官) 実行力ある稀代の事業構想家

月刊事業構想 編集部

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作家で元経済企画庁長官の堺屋太一氏が2月8日83歳で亡くなった。「団塊の世代」の名付け親で、1970年の日本万国博覧会の仕掛け人としても知られ、歴史や社会動向にもとづき未来の社会を構想する事業構想家でもあった。

2月8日に青山葬儀場で営まれた葬儀には約1000人が参列した。前日の通夜には安倍晋三内閣総理大臣、葬儀には菅義偉官房長官、元大阪府知事の橋下徹氏、キッコーマン名誉会長の茂木友三郎氏、建築家の安藤忠雄氏、作家で元東京都知事の石原慎太郎氏、東京都知事の小池百合子氏など生前交流のあった各界の著名人が詰めかけた。

堺屋太一氏から大阪府知事への立候補を熱望され知事選の出馬を決めたという橋下徹氏は、弔辞で「2025年大阪で再び開催される万国博覧会の開幕を堺屋氏が見届けられないことが残念」と涙ながらに語った。菅官房長官は、豊臣秀吉の弟・秀長を描いた『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』(1985年)の愛読者であることや本人からサイン本をもらったエピソードを語った。安藤忠雄氏は大阪の同郷で、青山(神宮前)にある東京の堺屋邸を設計した思い出を語った。

石田三成を手本に
万国博覧会を推進

堺屋氏は東京大学卒業後、通商産業省(現在の経済産業省)に入省した。20歳代の係長の時に先輩官僚からふと聞いた話からひらめいて、万国博覧会を大阪で開催しようとひとり招致運動を始めたのである。当時、工業用水の汲み上げすぎで大都市では地盤沈下が発生していた。堺屋氏はその対策を担当していたため、大阪にも出張に行く機会があり、出張の折に大阪府や大阪市、商工会議所に働きかけていたのである。その成果が実り、大阪から国への要望書提出となったが、それからが大変であった。省内で上司や同僚に話しても忙しくて誰も見向きもしてくれない。当時は重厚長大型産業の育成が通産省の最優先課題で、イベントの開催など、遊びの延長線のように思われていたのだ。

そこで、堺屋氏は一計を講じて幹部公用車の運転手に万国博覧会の魅力について、謄写版刷りの企画書をもって説いて回ったのである。これが功を奏し幹部職員にも浸透し始め、省内でも評判となり始めたものの、上司からは「こんなことをするのであれば辞表を書け」と迫られたこともあった。

そうしたことにもくじけずに周りを巻き込んでいっているうちに、1964年に閣議決定されるまでになったのである。その後、堺屋氏は万国博準備室の担当となり、本格的に招致に動き始めた。国際博覧会条約の批准、対抗馬となっていたオーストラリアとの招致競争など課題山積であったが、東京オリンピック後の1965年に、1970年に大阪で開催することが正式に決定したのであった。

堺屋氏は中堅中小企業の合同パビリオンである生活産業館もプロデュースするなど、八面六臂の活躍であったが、周りからのアドバイスもあり、万国博覧会の「手柄」を自分がやったものとして決して言わない、ということを長年守っていた。

それは、日本は偉くない人が発案した大きなことを成し遂げられる一方で嫉妬深い風土があり、手柄を自慢することで潰されてしまうということが多くみられるからであった。それを堺屋氏は豊臣秀吉に仕える石田三成から学んだのであった(『巨いなる企て』1980年)。

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