江戸時代にトレーダー教育 事業を構想する藩主・青山忠裕
青山の地名のルーツとなっている青山家。徳川家康の家臣として、青山の地に居を構えてから400余年。前号に引き続き、第27代当主の青山忠靖氏に代々伝わるお話を伺った。青山の歴史を紐解くと、事業構想と深い縁があることがわかる。
「青山家のなかで、特筆すべき人物をあげるとすると、なんといっても第18代の忠裕です。私と同じ『ただやす』と読みます。忠裕は、徳川幕府第11代将軍・家斉の時代、1790年から1928年の28年間、老中を務めました。青山家の歴代で老中まで務めたのは忠裕のみです。また、篠山藩(現在の兵庫県篠山市)6万石の大名でもありました」
死刑を廃止して出稼ぎを認める
「忠裕は、老中在任中、死刑を廃止したことでも知られています。江戸でも篠山でも一度も死刑は執行していません。篠山は米があまりとれない土地柄のため、農民の生活は貧しく、直訴がおきたことがありました。江戸時代、直訴をおこすということは、首謀者は死罪となる重罪でした。忠裕は牢獄に出向き、首謀者の話に耳を傾けました。首謀者によると、出稼ぎに行けないから農民は食べていけない、というのです。そこで、忠裕は、わかったから一年間牢屋で我慢しているように、と諭しました。江戸時代は、原則出稼ぎは禁止されていましたが、その間に、出稼ぎを認めるようにし、首謀者も無罪放免としました。その後、篠山の農民は冬の間、灘に酒づくりの杜氏として出稼ぎができるようになりました。出稼ぎに行くと現金収入がありますので、年貢の代わりに、お金で年貢を支払えるような仕組みをつくったのです」
キャッチコピーで黒豆を販売促進
「忠裕は、篠山で栽培されていた黒豆の生産を大いに奨励し、積極的に大坂(現在の大阪)で換金しました。また、黒豆の煮汁を飲むと喉によいということから、『黒豆の煮汁を飲むと咳が止まる』というキャッチコピーまでつくって、大坂で売り出しました。黒豆を有用な薬として付加価値を高め、さらに篠山産の黒豆のブランド価値を高めていったのです。今でも丹波篠山の黒豆として知られていますが、このころの政策が現代にも生き続いているのです」
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