産後ケア事業 成功のポイントは「食」

制度面が整いつつある産後ケア事業だが、その成功へのポイントはどこにあるのだろうか。母親へのケアの観点から、衛生学・公衆衛生学が専門の、杏林大学名誉教授で社会医療法人財団大和会理事長の大野秀樹氏に聞いた。

市町村が
産後ケア事業を行う意義

産後ケア事業にはどのような要素が求められるのか。衛生学・公衆衛生学が専門の、杏林大学名誉教授で社会医療法人財団大和会理事長の大野秀樹氏は次のように話す。

「わが国には母子保健制度はありますが、母子検診は主に子どもの検診であり、母親へのケアはおざなりにされているのが現状です。母体が分娩前の状態に戻るまでの産褥期は、一般に6週間から8週間と言われていますが、この産褥期に、育児に対するプレッシャーなどで心理的に不安になる人が出てくるわけです」。

母親が不安定な状況になった時期を調査したデータがある(図1)。それによると、産後1ヶ月の間に精神的に不安定になった人は55%、1ヶ月から6ヶ月以内は32%で、合わせて87%もの人が6ヶ月以内に不安定になったと答えている。

図1 母親が感じた産後の不安定な時期

出典:2010年12月アンケートインターネットリサーチより引用改変

「母親は産褥で体調がすぐれない中、授乳などで昼夜を問わず赤ちゃんの世話をしなければならず、睡眠も十分にとれません。そうなると、肉体的、精神的に辛くなってきます。そういう時の息抜きとして、産後ケアは非常に大切です」。

一方、2015年に産後ケアを利用した人の利用日数を見ると(図2)、全額自費による利用日数では、70%の人が1~3日間と短かった。だが、市町村の助成がある場合は、67%の人が4日から14日と長期間利用できている。市町村が産後ケア事業を行うことは、利用者にとっても、産後ケアが普及する上でも、非常に意味のあることだと言えるだろう。

基本は、快食・快眠・快便

では、産後ケアハウスにおける母親へのケアは、どのような内容がふさわしいのだろうか。産業医の経験を持つ大野氏は、うつ病で長期休職をする社員をたくさんみてきた。その時のケアと、産後ケアには共通点があるという。

うつ病は、再発して休職を繰り返していると、職場への復帰率はどんどん落ちていき、だいたい4回休職するとほぼ復帰できないと言われている。大野氏は、うつ病を患った人に、「快食・快眠・快便ができれば大丈夫だ」とアドバイスしていた。すると、休職4回目の人でも、アドバイスを実行した人は見事に復職することができたという。「眠ることと食べることは生きる基本です。これさえできれば人生怖い物はありません。これは産後ケアでも同じだと思います」。

図2 2015年度の産後ケア利用日数(利用料の助成あり・助成なし)

出典:北村 愛:助産雑誌 71:191-196、2017より引用改変

福祉活動家・佐藤初女に学ぶ
「人が感動する食事」

大野氏が産後ケアで特に重要だと考えているのが「食」だ。理想形のイメージとして、福祉活動家・佐藤初はつ女め氏の「森のイスキア」の活動を挙げた。森のイスキアは、青森県岩木山山麓に佐藤氏が開設した、悩みや問題を抱えた人たちを受け入れる"癒しの場"だ。ケアの中心に"食事"を据えており、問題を抱えた人たちのために、手間暇惜しまずに心を込めて食事を作り、一緒に食べる。食事として供されるのは、野菜を中心とした地元で採れる旬の食材だ。

「この美味しい食事を自分のために作ってくれたのだと思うと、その人の心の扉が開いて、自分の悩みを話すようになるそうです。食事というものは、みんなで食卓を囲めば、不思議と食が進むものです。すると、生きる力が湧いてきます。こうして、 森のイスキアを訪れた人たちは、すっかり元気になって帰っていくそうです。このようなケアの仕方は、産後ケアにぴったりだと思います」。

食事は、高級料亭で出てくるような豪華な食事でなくてもいい。地方の民宿で出るような、自家製の美味しい漬物でもいいのだ。

「作家の池波正太郎は、朝飲む一杯の味噌汁が、気持ちを豊かにし、人生を強く生きていけると思わせてくれると語っていました。食べるだけで幸せになる、そういう食べ物はあります。食べる人が感動するような食事を提供すれば、お産で疲れ、慣れない育児に不安を感じているお母さんたちも、すっと気持ちが楽になるはずです」。

"人が感動する食事"とは、どのような食事なのだろうか。大野氏はそれを、「心を込めて、手間をかけた食事」だという。「相手を思い、心を込めて作ったものであれば、それがおにぎりだったとしても、自殺を思い止まらせることができます」と話す。これは、森のイスキアで実際にあったエピソードだ。

死ぬことを決意した青年が、家族に泣きつかれて、森のイスキアを訪れた。彼は食事ものどを通らず、翌日何も食べないまま帰ることになった。佐藤氏は、途中でお腹がすくだろうと、おにぎりをこしらえる。そのおにぎりを、ラップにくるむと水分が出ておいしくなくなるからと、タオルに包んで青年に渡したのだ。

帰りの電車の中で、もらった包みを開いた彼は、こんなバカな自分のために、ここまで心遣いをしてくれる人がいるのだと思い、生きてみようと考え直したという。こういう心遣いのもとに作られた料理が、人を感動させる料理なのだ。

「睡眠の提供はそんなに難しくありませんが、食事に関してはもう少し考えた方がいいと思います。特に病院食は、あまりおいしいとは聞きません。まず、多くの病院食は、食べるときに冷えていますよね。温かいものは温かいうちに提供する。それが心遣いというものです」。

「本来、妊娠分娩は動物の生理的現象であり、大きな問題は生じないはず」と大野氏は言う。ところが、現代の人間の生活は、余計なことが増えすぎて多忙を極めている。昔は近所づきあいがあり、おばあちゃんも一緒に住んでいたので、初めて母親になった人も安心して子育てができていた。しかし、そういう環境も失われてしまった。

「その結果、母親が社会の中で孤立して、『孤育て』の問題が年々深刻になっています」と話す大野氏は、産後ケア施設と高齢者施設の併設によって、昔に近い環境をつくることができるのではないかと考えている。

お年寄り、特におばあちゃんには、子どもが大好きな人が多く、子どもと一緒だと本当に元気になる。赤ちゃんの母親にとっても、子育ての経験豊かなおばあちゃんと一緒なら精神的に安心できるだろう。

「産後ケアの制度や仕組みを作ることはもちろん大事ですですが、母親に心身共に元気になってもらうには、こういったメンタルをケアするための具体的な方法を考えていくことも大切だと思います」。

大野 秀樹(おおの・ひでき)
杏林大学 名誉教授、社会医療法人財団大和会 理事長