2016年9月号
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2020年に向けた新ビジネス

日本を変えた東京五輪1964 「2020」は何を生みだすか?

嶋田 淑之(自由が丘産能短期大学・教員、文筆家)

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経済の停滞が続く中、東京五輪2020を契機とした新事業創出やそれを通じた日本経済再生に寄せられる期待は大きい。しかし、それは果たして可能なのか?東京五輪1964からの創発ビジネスという視点を中心に据えつつ、「ロンドン五輪2012」にも言及し、検討したい。

1964年に開業し、今では日本の戦略的輸出品目にまで発展した新幹線 Photo by Sui-setz

東京五輪1964への4つの隘路

敗戦の打撃から徐々に立ち直りつつあったとは言え、1960年代初頭の日本は、欧米への劣等感に苛まれる、貧しい発展途上国であった。民間テレビ放送開始以降、繁華街の「街頭テレビ」に人々が群がり、白人レスラーを叩きのめす力道山の雄姿に喝采を叫ぶ姿にもそれは表われていた。「日本人としての誇りを取り戻したい、少しでも豊かになりたい」というのが、当時の日本国民の切なる願いだったと言ってよい。そして、1964年の東京五輪開催こそは、それを実現するための決定的な契機となるものと期待されたのである。

ところが、20世紀前半、戦争と軍拡に明け暮れ、世界の人々が一堂に会するような巨大イベントを開催したことのなかった日本には、五輪を運営するノウハウが決定的に欠けていた。特に問題だったのは、(1)選手村の飲食供給能力 (2)多言語対応能力 (3)コンピュータ活用能力 (4)公的な警備能力の4つである。

これらの内、公的な警備能力に関しては、警察と自衛隊では賄い切れない部分に関して、1962年に設立された日本初の民間警備会社「日本警備保障(現・セコム)」に発注することで、どうにか切り抜けることに成功する。以降、70年大阪万博、72年札幌冬季五輪などの大型国際イベントが続く中、同社などが活躍したことで、やがて民間警備事業は、ひとつの業界として確立する。

問題は、残りの3つであった。そして、実は、この3つには共通の根深い問題があった。そこで、「選手村の飲食提供能力」を中心に、問題の核心と、どうやって、それを克服していったかを見てみたい。

力道山戦には、街頭テレビの放送に市民が最大1万2000人集まったことも

職人的属人性からの脱却

1960年代前半における日本の飲食業界は、概ね次のような状況にあった。(1)料理人の社会的地位は低く、「包丁一本さらしに巻いて」の言葉通り、流れ者・やくざ者のやることというのが世間の評価であった。そのため、心ある料理人には、そうした状況を何とか打開したという思いが強かった。

(2)また、当時は、個々の料理人がレシピやテクニックを決して他人に公開しない“職人気質”に特徴があった。料理とは、秘伝のレシピと技により、1人の料理人がすべての行程を1人で行うものだったのである。

(3)さらに、当時の飲食業界は、“個々の飲食店単位で仕入れから調理までを行いお客に供する”のが常識であり、したがって、大型店であってもその供給能力には限界があった。

しかし、五輪となれば、選手村で、毎日3食、各回1万人分以上の食事を提供する。しかも、選手の摂取カロリーは、一般人の2倍なので、各回2万人分以上の食事を用意する計算になる。それに加えて、世界中のありとあらゆる食文化に対応するために、膨大なメニューを作る必要も生じる。また、毎食それだけ膨大な食材を仕入れれば、市場は品薄となり、価格が高騰するなどマイナス効果が生じることも懸念された。

そこで、選手村の飲食の総責任者に任命された帝国ホテル新館料理長(当時)村上信夫氏は、思案に思案を重ね、次のような解決策にたどり着く。

a. ‌冷凍・解凍技術の研究・改良を行い、数カ月間かけて少しずつ仕入れ、冷凍し、選手村開村までに全量仕入れを完了する。

b. ‌日本全国から各分野の優秀な料理人を集め選抜。そして、「1つの料理は1人の料理人が作る」という従来の常識を打破し、バックヤードのサプライセンター(現在のセントラルキッチンの原型)において、「チームで基本的な調理を行う」方式を確立した。

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