2020年1月号
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新時代の観光ビジネス

ニセコが訪日客を呼び込める理由 住民の力で世界的リゾートへ

片山 健也(ニセコ町長)、青木 優(MATCHA 代表取締役社長)

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ニセコが世界的なスノーリゾートになった背景には、どのような努力があったのか。ニセコ町には住民自治の文化があり、「行政の役割は、思いを持って行動する人を応援すること」と語る片山町長に、訪日外国人向け WEB メディアを運営するMATCHA・青木社長が話を聞いた。

片山 健也(ニセコ町長)

今日の発展をもたらした
独自の「ニセコルール」

青木 ニセコが世界的なスキーリゾートになった要因について、どのように見ておられますか。

片山 かつてのニセコ町は、道内では湯治や山スキーで知られていたのですが、全国的な知名度はほとんどありませんでした。それでも、リゾートホテルの進出もあって、バブル期には約70万人の宿泊客があったのですが、バブル崩壊とスキー市場の縮小とともに、一時は31万人まで減少しました。

苦境を打開するために、改革を主導したのは住民たちです。かつてのニセコ町は年間2000~3000万円程を観光協会に委託して、観光振興に取り組んでいましたが、結果に対して誰も責任を取っていませんでした。そうした状況を変えるために、2003年に住民と町が1000万円ずつ出資し、日本で初めて観光協会を株式会社化しました。これにより効果的な観光施策が可能になったのです。

そして、今思うと慧眼なのですが、20年近く前の当時、観光協会の役員が「これからの日本は人口減少社会になる。東京や大阪の観光客をターゲットにして、小さいパイの奪い合いをしている場合ではない」と、いち早く外国人旅行者の呼び込みを始めました。

住民有志が「東アジア観光客誘致協議会」を設立し、台湾や香港への売り込みに力を入れたのです。

青木 優(MATCHA 代表取締役社長)

青木 観光協会を株式会社化したことで、住民主導の動きが加速されたのですね。

片山 そうです。ニセコのパウダースノーが有名になったのも、キーパーソンとなる住民がいたからです。1980年代に山頂付近までリフトが整備されてから、ニセコでは雪崩事故が多発していました。新雪を滑りたいスキーヤーが、立ち入り禁止のロープをくぐってスキー場外に出てしまうのが主な理由です。

この悲しい事故を何とか防げないかと、ニセコでロッジを経営していた登山家の新谷暁生さんが中心になって、1995年に「第1回ニセコ雪崩ミーティング」を開催しました。これが雪氷研究の専門家も巻き込んでどんどん活発化する中で、2001年に定められたのが「ニセコルール」です。国内の他のスキー場ではロープを張って滑走禁止とするようなエリアを、ニセコではゲートを設けて条件付きで滑走を認めました。

ニセコのスキー場エリア(倶知安町とニセコ町)の公式ローカルルールとして、利用者の自由を尊重し、「ルールを守れば新雪が楽しめる」という信頼関係をスキーヤーとの間で育みました。ニセコルールを順守しての雪崩死亡事故は、皆無となっています。

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