史上初、日本人が日本車でル・マン優勝 勝利を導いた信念

今年6月、ルマン24時間レースでトヨタから参戦した2チームが1-2フィニッシュを決め、初の総合優勝に輝いた。その優勝の一翼をドライバーとして担ったのが中嶋一貴だ。ルマン優勝の日本人は史上3人目。日本車での日本人選手の優勝は初とあって、日本中が歓喜に沸いた。しかし、中嶋は勝利に酔いしれることなく、いつも通り冷静に、目の前のレースだけを見据えていた。

文・油井なおみ

 

中嶋 一貴(レーシングドライバー)

レースを勝ち抜くのは
"血統"ではなく"努力"

ある一定以上の年齢の人間なら、「レース」で「中嶋」といえば、中嶋悟を思い浮かべるかもしれない。

中嶋一貴は、かつてトップドライバーとしてF1で活躍したその「中嶋悟」を父に持つ。物心つく前から、父についてサーキットを回り、小学5年生でカートレースにデビュー。幼いころからサラブレッドとして注目され、周囲からの期待とプレッシャーを背負う日々を送ってきたはずだが、中嶋自身はごく軽やかだ。

「レースがずっと生活の一部としてあって、レースが好きで、遊園地に行けばゴーカートに乗りたがる子どもでした。レースを始めたのも自然な流れです。周りから何か言われたり、父でさえ介入してくることがなく、いわゆる"二世"とか、そういうプレッシャーを感じたことはないですね。周囲にいい環境を作ってもらえていたんだなと思います」

とはいえ、親子2代でトップレーサーとなれば、類稀なDNAに恵まれているのだろうと世間は思うものだ。ところが中嶋はもともとレーサー向きの体ではなかったという。

「線が細くて、持久力もなくて。短距離は早かったのですが、長距離走は苦手でした。今の体はトレーニングで作ってきたものです。F1は体にかかる負担が最も大きなスポーツと言われていますから、続けているうちに鍛えられていったんです」

高校2年生でトヨタのドライバー育成チームである『フォーミュラトヨタ・レーシングスクール』を受講すると、そこでは厳しいトレーニングが待ち受けていた。

「10km走った後に、1~2km泳ぎ、その後、自転車で高低差のある道を1時間走る。トライアスロンのようなメニューをやった仕上げに、今度は全身の筋肉や体幹のトレーニングです。これを続けていました。それでも、23歳でF1に乗れるチャンスが巡ってきたころは、まだ体力レベルが追いついていなくて。成績を残さなければ、すぐに振り落とされる世界ですから、トレーニングは今でも重要です」

そのハードなトレーニングに屈せず、結果を出し続ける者だけが残る厳しい世界。中嶋はトップレーサーとなった今も、当時と同じようなトレーニングを続けているという。

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