アスリートと研究者、義足開発者が集い最速を究めるプロジェクト

義足のスプリンター(短距離走者)春田純は、自らの走りを追究すると同時に、研究開発者や陸上指導者が一体となった競技用義足の開発チームに参画している。2020年の東京パラリンピックにはMADE IN JAPANの義足でファイナリストに残ることを目指し、彼らが進めるプロジェクトとは。
文・小島 沙穂 Playce

 

春田 純(陸上(障がい者スポーツ)選手)

日が沈み、あたりが暗くなり始めた頃。草薙総合運動場の隅で、春田純は普段使い用の義足から、競技用の義足へと履きかえる。ストレッチや腿上げ、ランニング、柔軟体操と丁寧にアップを行い、夜の練習のスタートだ。

彼が骨肉種で左膝から下を切断したのは15歳の時。好きだった陸上競技を諦めなければならなかった。抗がん剤を3年間打ち続け、何度も生死の境をさまよった。もう一生、車いすで過ごすしかない。楽しいことなんて何もない。義足にコンプレックスを抱きながら生きる毎日だった。

24歳の時、義肢装具士の沖野敦郎氏との出会いが彼を変える。障がい者でも、陸上競技用の義足を履けば、走ることができると知った。風を切って、あの気持ち良さをまた味わえる。その喜びに、春田は震えた。大好きだった陸上に再び挑戦できたのだ。

「僕は走れる」再び光がさした人生

「競技を知った当初は、ただ走ることが楽しくて、本格的に競技の世界へ入ることは考えていませんでした。しかし、競技をはじめて5年ほど経った2008年。沖野君に連れられ、僕は北京パラリンピックを生で観戦することに。オリンピック選手に近いタイムで走るパラの選手たちを見て、僕ももっともっと速く走りたいと思うようになりました」

春田の障がいのクラスはT44。彼が100m12秒15で当時の日本記録を更新したのは、北京の翌年、2009年のIWAS世界大会(インド)の時。実はそれまで5~6年記録が更新されておらず、春田が障がい者陸上に風穴を開けたかたちである。さらに2011年新日本製薬大分陸上で、日本人には不可能だと言われていた12秒の壁を突破し、11秒95をマーク。同種目を競う選手たちとともに、37歳となった現在も、さらなる高みを目指して日々練習に励んでいる。

「足を切断したら、楽しみが何もなくなってしまうと考えている方がほとんどです。僕もそのひとりでした。そんな暗闇の中にいる障がい者の方々にこそ、陸上を楽しむ僕の姿を見てほしい。僕は義足ですいすい歩くことも、世界と競い走ることもできる。もちろん、仕事も趣味も、一般的な生活が過ごせていて、生きることってなんて楽しいんだ、と毎日感じています。義足でも、こんな人生があるんだと知ってもらいたいんです」

そうして走り続ける春田に、ある出会いが訪れる。この出会いにより、春田の競技生活は変化し、さらに彼は義足の開発と普及にも大きく関わっていくことになる。

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