創業125年超の老舗書店の革新 青山の変遷を見守る「灯台」

表参道の交差点に立つと、3階建ての建物いっぱいに描かれた大きな壁画が目に入る。まちのシンボルともいえるのが、創業125年を迎える老舗書店「山陽堂」である。2011年には、展覧会やイベントを開くギャラリーも併設する書店にリニューアルした。

山陽堂は岡山出身の萬納孫次郎が1891年に創業した書店。萬納孫次郎は明治元年江戸時代から代々続く岡山城下船着町の商家に生まれた。21歳で上京し、新聞販売業などを経て、青山に書店を開いた。店の名前は、出身の岡山に由来するものと思われる。1931年に天皇が通る道である「御幸通り」をつくるため、現在地に移転し、地上三階地下一階鉄筋コンクリートのモダンな建物が建てられた。山の手空襲でも奇跡的に戦災を免れた。

戦後1950年頃から1970年までは、住み込みの勤労学生店員が多い時で6名ほどいた。中学卒業後、店に住み込んで昼間は店で働き、夜は高校や大学に通った。

四世代目の遠山秀子氏は、「住み込みの店員さんは、家族のようでした。父(三代目)は夕方になると、仕事の途中でも『仕事はまかせて、早く学校に行きなさい』と言っていました」

大正時代半ばから昭和6年頃は、青山通りから根津美術館へ行く道(現・御幸通り)の入り口辺りにあった

東京オリンピックで3分の1に

前回の東京オリンピックは、山陽堂にとって大きな転機であった。オリンピック開催のため、青山通りは開催前年の1968年に22メートルから40メートルに拡幅されることになったのである。山陽堂の建物も3分の2を道路のために供出しなければならなくなった。

「代替地に移転するという話もありました。けれど、戦前から山陽堂に関わり、戦後商売の建て直しを担った二代目の祖父にとって、この場所と建物には強い思い入れがあったと思います。この状況の中、心労が重なったのか祖父が倒れてしまい、三代目になる父が後を引き継ぎました。父は生前雑誌の取材で『古くからのお得意さんもあるし、それに店員たちもいましたからね。自分の都合だけで商売を替えることはできませんよ』と当時のことを語っています」

最終的には、建物の3分の2を削って営業を続けるということになった。

13歳から店番
変化する青山を見続ける

「13歳から店番をさせられました。昼休みになるとお店はぎゅうぎゅう、12時が近づくと釣銭の確認などをして、気合をいれたものです。お店は狭くなりましたが、父が『うちは坪単価は高いんだよ』とよく言っていました」

「店番をしていて、世の中には本当にいろいろな人がいるなあ、と勉強になりました。バブルまでは、戦前からの住人の方に加えて、ファッションや建築・広告やデザイン関係の方など、クリエイティブなお仕事をされている方も多く見られました。入ってこられると、店の中にぴーんとした緊張感が漂っていたのを印象深く覚えています。学生の頃、お客様が「『公孫樹』と書かれた背表紙を指差して『これはなんと読む?』と私に質問しました。読めずにいると『イチョウ』と読むのだと教えてくれました。そのお客様が来店されるたび、緊張したものです」

遠山秀子(山陽堂書店 四世代目)

ヴァンジャケット創業者の石津謙介(本誌1月号で紹介)の実家も、元々は岡山県の紙問屋で、江戸時代から続く商家であった。隣町同士でおそらく両家は岡山で交流があったと思われる。

「店番をしていると、お客様が、昔の青山の話をしてくれることがあります。昨年92歳で他界された85年来のお客様は、85年前に山陽堂を贔屓にしてくれるようになったきっかけを聞かせてくれました。そこには私の知らない祖父の姿がありました」

転機をチャンスに変えていく

転機となったのは120年目を迎えた2010年であった。バブルの崩壊、リーマンショックで、書店の売上は下がっていった。バブル崩壊の時は、店頭販売だけでなく、近隣の美容室などへの配達を増やして乗り切った。しかしリーマンショックの時は、このままではいけないと思いつつ流れに身をまかせていた。そんな中、2010年創業120年目に親族、店員たち75名で祝いの会を開いた。新聞社の取材も入り、その後、NHKの朝のニュースでも取り上げられ懐かしい客が訪ねてくれたものの、売上げは伸びなかった。そんな時、次世代の甥から「企画案」が渡された。「母と叔母、妹二人の家族経営なのでこれまで改まって会議をしたことなどなかったのですが、甥も含めて初めて会議を開きました。そこで、二階と三階の空間を生かして展示する場を作ろう、ということになりました。早速片づけをはじめると、不思議といい風が吹いてきました。そして、展覧会やイベントを開くギャラリーとしてオープンすることとなりました」

この5年で70回の展示、トークやサイン会を80数回開催してきた。また、安西水丸氏が2013年に「山陽堂イラストレーターズ・スタジオ」を開講、安西氏亡き後はアートディレクターの長友啓典氏が講師を務める。今後は新たに、様々な人やことが交流し発信できる「場」にしたいという。

「壁画は、昭和38年に先代和夫が新潮社佐藤社長との縁で、週刊新潮の表紙を描いていらした谷内六郎さんに描いていただきました」

現在の壁画は二代目で題名は「傘の穴は一番星」。下部には天野祐吉氏による解説プレートがあり、海外からの観光客のために英文も付している。

昨年の10月、作家の村上春樹氏から「祝ヤクルト・スワローズ優勝!」と書かれた応援の色紙が届けられた。ヤクルトのセ・リーグ優勝とノーベル文学賞発表時期とが重なり、マスコミの取材が続いた。この時期村上氏は、自伝的エッセイ『職業としての小説家』を発刊した直後だった。村上氏から小さな書店に対する応援メッセージの意味が含まれていたのかもしれない。

「村上春樹さんからの突然の色紙に驚きましたが、とてもうれしかったです。山陽堂は、多くの方々との縁と応援に恵まれて、これまで続けてこられました。書店を取り巻く状況は厳しいですが、これからも時代の変化に対応しながら、愛着のある青山のこの地で店を続けていきたいです」

山陽堂の現在。壁画は、画家の谷内六郎が描いた

遠山秀子(とおやま・ひでこ)
山陽堂書店四世代目

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