2014年4月号

挑戦 壁を乗り越える技法

危機感を力に変えた、J得点王。

大久保嘉人(川崎フロンターレ)

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昨年、31歳にして自己最多の26ゴールを決めてJリーグ得点王に輝いた川崎フロンターレの大久保嘉人。2009年から4シーズン所属していたヴィッセル神戸では、総得点が27ゴールだった。「大久保は終わった」という評判を覆して再び覚醒した点取り屋は、これまで常に危機感を抱いてきた。その危機感が進化の鍵を握る。
Photo by Masakazu Yoshiba text by Io Kawauchi

 

「このチャンスを逃したら、もうダメだめかもしれない」「俺、終わったな」「危機感」。

大久保嘉人は取材中、過去を振り返りながら何度もこういった言葉を口にした。

意外、ではないだろうか?どちらかといえば困難に直面しても挑みかかるようなタイプに見える。しかし、実際は違った。

ピンチに陥る度に、胸のうちでは「もう後がない」と追い詰められていたのだ。

その切迫感が今の大久保を形作ってきたのかもしれない。大久保はなんとか土俵際で踏ん張り、自分が生き残る道を見出して、盛り返してきたのだ。

負傷時に活きた高校時代の経験

そんな大久保の原点は高校時代にある。

過酷な練習で知られる長崎の名門・国見高校2年生のとき、全く試合に出られなかった大久保はサッカー部を辞めようとした。

しかし、急に風向きが変わった。ある日突然、今まで経験のないトップ下のポジションで起用されたのである。「トップ下は初めて。ここを逃したら二度とチャンスは来ない。すごくプレッシャーを感じました。とにかく、点を取らないと先生の頭に俺の名前が残らない。指示通りではなく、点を取るために、自分の考えるように動こう、ゴール前にいようと思っていました。そしたら、その試合で4点決めたんです」。この試合の後、大久保はレギュラーに抜擢。翌年にはJリーグの複数クラブからスカウトの声がかかるほどの存在となる。

大久保が「サッカー人生で最初の大事な試合だった」と言うほどの転機だった。

高校時代に雌伏の時を過ごし、ここぞという場面で重圧に負けず、自分の判断で結果を出した経験は、プロ入り後も活きた。

2001年、高校三冠、さらにインターハイ、高校選手権で得点王になり鳴り物入りでセレッソ大阪に加入した大久保だが、5月、左足関節内側三角靭帯を断裂する重症を負う。手術して復帰するも、今度は右足の同じところを痛めてまた離脱し、結局、完全に復調するまでに1年を要した。

「俺、終わったな、こうやって終わっていくんやろうな、と思いました。高校選手権で優勝して得点王になった人は潰れるっていうジンクスがあって、実際こういう怪我で引退してしまう人が多いから。このときの危機感は半端なものではなかった」。

大久保にとっては初めての大怪我。慣れないリハビリ生活で、一時は体重が80キロにも達した。それでも、「ここでは絶対に終わらない」と闘志を燃やすことで、気持ちを保った。

すると、またチャンスが訪れる。負傷が癒えたプロ2年目。開幕からベンチ、ベンチ外が続く。ところがある日、レギュラー格のフォワードが2人、立て続けに負傷離脱。大久保にチャンスが巡る。先発に起用されたホームの湘南ベルマーレ戦で、2点を決めた。

大久保はこの試合以降、レギュラーに定着。J2の得点王争いにも絡み、翌年には日本代表にも招集された。まるで高校時代をコピーしたような展開である。結果を出さなければ後がない状況で迎えるチャンス。大久保は、そこで常に得点に集中し、生来の「ゴールの嗅覚」を覚醒させ、鮮烈な結果を出してきた。

逆境のなかで新しい自分を見出す

その後、大久保は波に乗り、若手の点取り屋として脚光を浴びたが、数年後、才能と努力だけでは乗り越えられない壁にぶち当たった。

スペインリーグのマジョルカに移籍して2年目のシーズン、また試合に出られなくなったのである。

問題はコミュニケーション能力だった。大久保はスペイン語の学校に通っていたが、もともと無口なので、誰ともあまり話をしなかった。そのことが監督に問題視されたのだ。

ピッチでのプレイと直接関係のない理由で信頼を得られない場合、挽回するのは難しい。だからといって、悶々としていても埒が明かない。大久保は行動を起こした。ひとりで家の近くのバルに行き、カウンターに座った。

「町で友達を作ろうと思ったんです。誰かに話しかけられるのを待っていました」。

シャイな男にとって、ありえない行動だ。それぐらい、コミュニケーションの問題で試合に出られないことを悔しく思っていたのだろう。この試みはある意味、成功した。

「同じ町に住むチリ人が話しかけてくれたんですよ。それから、2人でビーチに行ったり、家に泊まりにきてご飯を作ってくれたり、すごく仲良くなった。普段はそんなことするタイプじゃないけど、思い切ってバルに行って良かったです。それから、前よりチームメイトとも話すようになりました」。このとき既にシーズン終盤で、この行動が試合出場につながることはなかった。

だが、収穫は小さくなかった。

自分が苦手だと思っていたことに挑み、克服することができたからである。こうして、逆風に晒されるたびに、それをバネにして力を蓄えていくのが大久保という選手だ。

それは、10年の南アフリカW杯のときも同様だ。ボールを保持する攻撃型チームを志向したものの、結果がついてこず、当時の岡田武史日本代表監督は、大会直前に突如守備的戦術へ舵を切り、メンバー構成も変更する。左サイドのミッドフィルダーだった大久保は、自陣に引いて守備を固め、カウンターアタックを狙うという戦術の中で、守備に奔走しつつ、攻撃時にはゴール前まで駆け上がることを求められた。チーム内で最も運動量が多く、厳しい役割だ。

しかし大久保は、その役割を完璧以上にこなしてみせた。攻守に無尽蔵のスタミナで躍動し続け、レギュラーとして全4試合に出場し、日本のベスト16進出に貢献したのである。

「システムを変えたときは、大丈夫かなっていう不安のほうが大きかった。でも、勝ちたい、負けたくないと必死だったから、試合になったら、ぜんぜん走れました(笑)。自分でもそこまで走れると思ってなかったから驚いたし、自信になりましたね」。

そして、大久保をJリーグ得点王へ導いたのも、やはり危機感だった。13年1月、4シーズンを過ごしたヴィッセル神戸からフロンターレへの移籍を決断する。このときも大久保はやはり、自分を追い込んでいた。

「神戸では、大久保は落ちたとか、終わったという批判もあったし、ここで結果を出せなかったら終わるなって思っていました」。

練習でプレッシャーを克服

背水の陣で臨んだ昨シーズン、Jリーグ屈指の攻撃的チームでフォワードとして起用された大久保は、長い眠りから目覚めたかのようにゴールを量産した。シーズン中盤に入る頃には、得点王争いでトップを争う位置につける。メディアやファンの注目度も日増しに高まっていった。しかし、その期待はゴールへの焦りへと変わる。結果が出せなければ、との思いも焦りに拍車をかける。焦燥感を払拭するために、大久保が選んだ方法はシンプルだった。「不安を打ち消すために、試合の前日でも、毎日、気が済むまで、納得がいくまでシュート練習をしました。そうすると、あれだけシュート練習したんだから入るだろうという感覚になって、すごく楽な気持ちで試合に入れるんです」。

ひたすらシュートを打って、感覚を研ぎ澄ます。そうすることで、ここ数年影を潜めていた「ゴールの嗅覚」を、再び取り戻した大久保は、最終的に26得点を決め、31歳にして初めて得点王の称号を得た。

若かりし頃の大久保は、野性味溢れる点取り屋だった。それから何度も危機に直面し、努力と忍耐でサバイバルしてきた今、その野性味に経験と自信が加わり、日本人屈指のストライカーに成長した。

そんな大久保を再び日本代表へ、という声も日増しに大きくなっている。大久保も、「今は精神的にもプレイにもすごく自信がある。代表でもこれまでとはまた違った自分が出せると思う」と代表選出に思いを馳せる。

ブラジルのピッチに、蒼いユニフォームをまとった大久保が立っている姿を想像する。恐らく彼はいつものように厳しい言葉で自分を追い詰め、奮い立たせているだろう。

そのときファンは、さらに進化した大久保嘉人を目撃するのかもしれない。

おおくぼ・よしと 大久保嘉(おおくぼ・よしと)
川崎フロンターレ
1982年6月9日、福岡県生まれ。国見高校卒業後、01年にセレッソ大阪に入団。レギュラーを掴んだ02年には29試合に出場し18得点。03年にA代>表入り、同年アジア年間最優秀ユース選手賞受賞。アテネ五輪での活躍を経てスペイン1部リーグマジョルカへレンタル移籍。以降、ヴォルフスブルク、ヴィッセル神戸を経て、13年に川崎フロンターレに加入。同シーズン、26得点でJ1得点王・ベストイレブン。南アW杯でレギュラーとして活躍、日本代表53試合出場・5得点。170cm、73kg。
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