木村伊兵衛賞を受賞 「広島」で見つけた写真家として生きる場所

母校である日本大学芸術学部写真学科での卒業制作で『日本大学芸術学部奨励賞』を受賞して以来、節目節目で数々の賞を受賞し、写真家として評価されてきた藤岡亜弥。昨年3月には"写真界の芥川賞"ともいわれる木村伊兵衛写真賞を受賞。それでも"写真家"と名乗ることに自信がなかったという藤岡が新たに見つけた夢と生き方に迫る。

文・油井なおみ

 

藤岡 亜弥(写真家)

何も知らずに飛び込んだ
写真の世界で見出された才能

「写真を撮るために生活する訳じゃない。生活する傍らにカメラがあった」

藤岡亜弥は自分と写真との関係をそう語る。早くからその独自の視点で高い評価を得ながら、その自覚や自信はないと言う。実際、卒業後は写真を離れ、イベント会社に就職している。

「大学時代から落ちこぼれだったんです。そもそもカメラなんて持ったこともなかったのに、ひょんなことで写真学科に入学してしまって(笑)」

第一志望の受験が叶わず、そのときまだ願書を受け付けていた写真学科に衝動的に願書を送り、入学。大学生活は楽しくはあったが、なかなか写真には興味が持てなかったという。

「授業もずっと上の空で、3年になるまでシャッタースピードと絞りの関係がよくわからず、現像もいつも失敗ばかり。ただあるとき、1枚の写真が褒められたんです。それからかな、写真にのめり込んだのは」

それは街で捉えた子どもの写真だった。藤岡曰く、いわゆる子どもらしい可愛くハッピーな写真ではなかったという。

「私が気になってシャッターを押したのは、街で置き去りにされたような憂鬱な雰囲気の子どもだったんです。いい写真を撮ろうと意識して、あれこれ考えてもうまく撮れるわけはなくて、自分が夢中になって魅かれるものや心に留まったものを撮ることで、そこに思考が膨らんでいくんだと思えました。写真には"ポイント アンド シュート"という言葉があって、狙って撮るのがスナップ写真の基本だと思っていました。でも写真って、勝手に写りこんでくるんですよ、思ってもみなかったものが。撮った写真の中に、自分が見逃していたものが映し出されていて、驚かされることがあるです。それが写真の面白さなんですよね」

生きる意味も見いだせず彷徨う
日々から写真が見せてくれたもの

就職した頃はバブルの余韻が残る頃。"パワハラ"や"ブラック"などという言葉は存在せず、業界的に徹夜も怒鳴られるのも当たり前だった。

「いやだと言える状況でもないし、体力的にも持たなくて、2年弱働いて退職し、台湾へ旅行に出たんです」

そこから、藤岡のあてのない旅は始まった。流れのまま、台湾に住み着き、一旦帰国するも、27歳であるだけのお金を握りしめ、ヨーロッパへ。とにかくお金のない旅で、時にねずみが旅人の鞄を漁る部屋に震えて眠り、時に現地で知り合った人の厚意に甘え、儚げな旅を続けたという。

「ネットも発達していなかったし、写真を撮るのが目的でもなかったし。どうやって生きていけばいいのかも、何のために旅を続けているのかも分からない。ただ"旅をするための旅"だったんです。不安で危うい旅でしたが、今思うと逆に、お金がないからこそ、経験できた旅でしたね」

帰国は、「祖父危篤」知らせを受けたから。ヨーロッパでの縄渡りのような旅の中で、自分も死と隣り合わせにいる感覚を漠然と感じていたこともあり、祖父の知らせに居ても立ってもいられなかったという。東京に戻ってアパートを借り、職を見つけ、広島県・呉市の祖父との間を行き来した。

その間も藤岡は、自分の生きる道を模索し続けた。ヨーロッパでの自分の時間は無駄なものだったのか。それを問うために、旅で撮りためた写真をまとめながら、帰省の度にシャッターを切り続けた。

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