金メダリストを支えたシューズ職人、東京五輪でも世界と戦う
1966年『オニツカ(現・アシックス)』に入社以来、シューズの製造に携わり続け、ランニングシューズの一時代を築いた男、三村仁司。2004年には『現代の名工』にも選ばれ、アシックスを定年退職した今も、築いてきたものに満足することなく、常にシューズ業界を牽引し続けている。
文・油井なおみ
地元で一番を目指した少年は
大人になり世界一を目指す!
とにかく、負けず嫌いな少年だった。
子どものころから、走るのには自信があった三村仁司は、高校の進学先に地元屈指の陸上の名門校を選択する。
「そこの陸上部には、県で20位くらいまでの俊足が入学してきて、僕は18番目くらい。絶対、一番になろうと思っていました。ところが、部活があまりに厳しくて部員がどんどん辞めていき、2年の秋には5人しか残らなかったんです」
そんな過酷な環境にも三村は屈せず、3年ではキャプテンまで務めた。
「中学の先生や親から、地元で一番の進学校に行けと大反対されたのを振り切って行ったんです。それで辞める訳にはいかないし、とにかく、負けたくないという一心でしたね」
毎日の厳しい練習で感じたのは、シューズの摩耗の早さ。
「高校の200mのトラックでインターバル走とか、早く走る練習をしていると、カーブがきつくて、右の小指のところがすぐに破れるんです。当時は綿のシューズでしたからね。母親に外側から継ぎ当ててもらったりしました。それでも月に2足は買い替えましたよ。高校の先生の給料が1万6000円くらいだった時代に、1足880円したので、高かったですね。それで、丈夫で長持ちするいいシューズを作りたいな、と考えるようになったんです」
大学からの誘いもいくつかあったが、就職を決意。家から通え、陸上同好会も盛んに活動していたオニツカ(現・アシックス)に入社を決めた。
「その年は150人ほど入社しました。僕は研究室への配属を希望したんですが、"ものづくりの分らんやつにいい研究はできん"と言われ、第二製造課に配属されたんです。大半の社員は、主力商品をベルトにのせて大量生産する第一製造課に配属されましたが、第二は、多品種を少量生産する部署。さまざまな技術を存分に勉強できたんです。70~80人ほどの部署でしたが、ここで一番になろうと必死で学びました。入社当初から、部署で一番。それができたらオニツカで一番。次は日本一。いずれは世界一に。そう思ってやってきました。大げさでも思い続けることは大事だと思っています」
言われた通りやるだけなら素人
自ら考え喜ばれるのがプロの仕事
第二製造部で5年勤務した後、ようやく念願の研究室配属となった。シューズのゴムやスポンジの研究・開発に携わり、大いにやり甲斐を感じていた配属3年目、大きな転機が訪れる。
「社長が、オニツカはテレビ広告を打たない代わりにトップ選手にシューズを履いてもらって知名度を上げ、ユーザー層を広げよう、という方針を打ち出したんです。その担当が僕でした」
抜擢の理由は、"スポーツを続けていたから、使う側としての選手の気持ちがわかる。また、研究担当だから、選手のニーズにも応えられる。何より、製造も知っているから靴づくりができる"。社内で唯一の人材だったのだ。
それまでもオニツカはオリンピック選手のシューズを作っていたが、専任を置いて開発するのは初。最初は三村一人だけの部署としてスタートした。
時代はモントリオール五輪を2年後に控えた1974年。三村は、男子マラソンで日本代表となる宇佐美彰朗や水上則安ら選手のシューズのほか、フィンランドのラッセ・ビレン選手のスパイクを手掛けた。
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