「夢を持て」とは言わない、「選択肢を広げる」ことを説く

言葉に詰まることの多かった少年時代の鈴木徹は、話す代わりにスポーツで自分を表現した。足を失い、種目を変えても、スポーツが自己表現であり、日本代表の選手になりたいという夢に変わりはなかった。目指す場所にたどりつくための道は1本ではない。それを知っていたから、鈴木は止まることなく進み続けることができるのである。

文・小島 沙穂 Playce

 

鈴木 徹(走り高跳び 片下腿義足)

鈴木徹は幼いころからスポーツ少年だった。小学校の頃はバスケットボール、中学高校ではハンドボール。高校時代には、ハンドボールの国体3位の成績を残し、将来は日本代表選手として輝かしい未来があるのだと周囲も本人も思っていた。

その一歩を踏み出す手前、鈴木の人生は大きく変わる。交通事故で右足を切断、義足生活を余儀なくされる。高校卒業直前のことだった。

鈴木には、悲観する暇などなかった。将来に不安がないとは言えなかったが、ただ「スポーツがやりたい」という気持ちを持ち続け、義足でもプレーできるスポーツがないか求めた。

つらいリハビリの中で彼が出合ったのは、義足で行う走り高跳び。よい指導者にも恵まれ、持ち前のジャンプセンスもあり、なんと彼は切断から1年あまりで大会に出場。当時の日本記録を塗り替える記録を打ち出し、シドニーパラリンピックへの切符を手に入れる。その後、パラリンピックや各世界大会で記録を伸ばし続け、2016年には2m02のアジア記録を跳んだ。

今、パラのジャンパーで2mの大台を跳ぶことができるのは、鈴木を含めて世界でたった2人。新しい自己表現の手段を手に入れた鈴木は、さらなる高さを求めて跳び続ける。

ジャンプというアイデンティティが
義足で歩む道を示した

けがや事故が原因で、肉体的にも精神的にも傷つき、復帰できずに消えてしまう選手も少なくない中、鈴木の心が折れなかったのには理由がある。彼にとっての支えはスポーツそのものだった。

「足を失っても、スポーツをやらないという選択肢は僕にはなかった。好きとか嫌いとかの次元ではなく、スポーツは自分の人生なんです」

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