「町医者」という生き方を貫く 在宅医療のスペシャリストの哲学

在宅医療のスペシャリストとして、メディアにもしばしば取り上げられている長尾和宏。数多く出版された著書はベストセラーとなり、自らのクリニックには全国から患者が訪れるが、クリニックを拡大することは拒み、あくまで町医者というスタイルにこだわる。「医療法人は株式会社と違う。地域住民の幸福に貢献することだけが責務」。その長尾の信念に迫る。

文・油井なおみ

 

長尾 和宏(医師)

父の死から決意した
人の心に寄り添える町医者への道

長寿大国といわれて久しい日本。先進医療が広がり、延命治療が当たり前となった今、平均寿命は男女ともに80歳を超え、2025年には65歳以上の人口が全体の30%を占める見込みだ。

当初は葬儀や遺品整理といった亡くなった後の準備を指していた"終活"の言葉の範疇も、今では死の準備、つまり、"平穏死"など、自身の人生の幕引きの選択にまで及ぶようになった。

25年ほど前、"平穏死"という言葉がまだなく、病院で最期を迎えるしか選択肢がないような時代から、平穏死と向き合い、提唱してきた長尾和宏。

東京医科大学に入学金免除で入学し、卒業後は大阪大学医学部附属病院などの大きな病院で様々な臨床に携わる傍ら、国内外の学会で発表を続けるなど、優秀な医師として精力的に活動した長尾。しかし、彼が一貫して志したのは、勤務医ではなく「町医者」だった。

「自衛隊員だった親父は、僕が中学生の頃から鬱病を患っていたんです。おふくろが競馬の馬券売り場で働いて育ててくれたんですが、病状はどんどん悪くなる一方で、家庭は荒んでいました。入退院を繰り返し、薬も飲んでいましたが、結局、おやじは自殺してしまって。4年も病院にかかっていたのに、一体、何だっだんだと、僕自身やさぐれてしまい、暴走族みたいになっちゃったんですよね」

幼い頃から成績優秀で、高校は大阪の名門校に通っていた長尾だったが、荒れた生活の中で医学部を受験するもうまくはいかず、卒業後はある自動車工場の夜勤工として就職した。高卒ながら、大学受験生の家庭教師もするなどして過ごすうちに、翌年、再び大学受験を決意。いくつか合格する中、伝統ある東京医科大学に入学を決めた。

「入学したその日に、自分は町医者になろうと決めたんです。親父みたいな人を生まない、人の心に寄り添える町医者になろう、そう決意しました」

大学時代は無医地区研究会に所属。人口800人の無医村だった長野県下伊那郡浪合村(現在は阿智村に編入)の村民の健康管理をサポートし、5年生ではキャプテンを務めるなど、無医地区活動に打ち込んだ。

卒業後は、母が一人暮らす兵庫県伊丹市に戻り、大阪大学病院第二内科への入局決めた。

休みなくさまざまな死に立ち会い
医師としての自分の役割に気づく

医師が一人前になるには20年かかるという。

長尾は、消化器内科に配属され、関連病院などでも患者と向き合った。毎日、救急車で終末期の患者が運ばれてくる救急病院では、医師が少ない上に若い医師は長尾ひとり。外来や入院、当直はもちろん、ほぼすべての外科手術や麻酔にも立ち会い、病院外に寝泊まりできたのは年間数日だったという。

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